空手の種類



空手をするようになって、多くの流派があることをしりました。

というか多すぎる・・・

で、メイン?と言われている流派を調べてみました。

そもそも空手の起源って?

空手道(からてどう)もしくは空手(からて)は、琉球王国時代の沖縄で発祥した拳足による打撃技を特徴とする武道、格闘技です。

空手道の起源には諸説があるそうですが、一般には沖縄固有の拳法「手(ティー)」に中国武術が加味され、さらに示現流など日本武術の影響も受けながら発展してきたと考えられています。空手道は、大正時代に沖縄県から他の道府県に伝えられ、さらに第二次大戦後は世界各地に広まりました。
空手道 – Wikipedia

4大伝統空手

松濤館流(しょうとうかんりゅう)

船越義珍
船越義珍
松濤會の空手道は、近代空手道の創始者として知られる故船越義珍先生を始祖と仰ぐ、80年以上の歴史を有する正統の空手道で、正統の空手道は、基本技や型を中心に稽古します。試合競技はやりません。「空手道に試合はあり得ない。」というのは、船越先生の遺訓だそうです。
日本空手道松濤會

現在、松濤館流は、昭和23年(1948年)に船越の門弟達が創設した日本空手協会(船越は初代最高師範)を筆頭に、多くの会派に分かれています。

松濤館流は全世界に広がり世界で一番多く人々に学ばれており、ここから韓国のテコンドーが派生したそうです。

試合しないと面白くないと思うのですが、ダメな考えでしょうか?( ;∀;)

僕の中では新極真がいいですね(^^♪

極真の総帥 大山 倍達(おおやま ますたつ)も1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶとあります。

武道的立場から見る「型」

「型」は技法の無限の変化を含むものであり、反復訓練する中で新たな発見を自覚するものである。さらに、「型」の分解動作、組手(試合ではない)稽古によって武術に必要な「間合い」の会得を図っている。

先生は「空手は一切の武術の根本である」の思想に従い、松濤會では本部道場松濤館に於いて、日常稽古の他に定期的に棍講習会を開催し、初級の棍として棍の基本、中級以上の棍の型・棍の組手を行い棍技術の習得も図っている。

松濤會空手道は年齢・性別・性格・身体の大小などに関わりなく、何時でも始められる武術であり、無理なく続けられるものである。

剛柔流(ごうじゅうりゅう)

宮城長順
宮城長順
1929年(昭和4年)、宮城長順の高弟・新里仁安により命名、のちに宮城がこれを追認したことから流派名として定着した。
剛柔流 – Wikipedia

宮城長順先生は、1930年(昭和5年)中国福建少林拳白鶴門の伝書「武備志」所載の拳法八句にある「法剛柔呑吐」を引用して、自らの武術を「剛柔流」と命名されました
沖縄剛柔流空手道協会 活動情報

沿革

東恩納寛量先生(1853~1915年)

17才の頃から新垣世璋先生に師事。その後、中国福建省福州に渡り(1874~1877年)研鑽帰国後、王族義村御殿の二男・朝義、宮城長順、許田重発の方々の様な卓越した空手家を育てられた。

宮城長順先生(1888~1953年)

14才から東恩納寛量先生に師事。1915年に中国福建省福州に渡り、1年余りにわたり中国各地において良師を求めて研鑽。更に1936年再度渡中し研鑽を重ねる。 空手道初の流派名・剛柔流を命名。琉球警察学校を主に各学校等において空手道を指導するが、警察学校教官在任中に急逝された。(1953年10月8日)

宮里栄一先生(1922~1999年)

17才から那覇市松尾において宮城長順先生に師事。警察官時代から宮城長順先生を補佐し警察学校で指導された。師 亡き後は宮城長順先生の宅で庭を整備し、門下生を指導した。1954年4月沖縄剛柔会(当時)の総会において宮城長順先生の後継者として公認された。 1957年那覇市安里に順道館空手道場を開館。門下生の指導にあたるとともに全日本空手道連盟相談役、全日本空手道連盟剛柔会顧問、沖縄県空手道連盟会 長、沖縄剛柔流空手道協会初代会長等の要職を務めたが、在任中急逝された。(1999年12月11日)

伊波康進先生(1925年11月24日生)

14才で宮城長順先生に師事。師亡き後は宮里栄一先生を補佐し門下生の指導にあたる。1964~1975年那 覇市泊に剛柔流正道館空手道場を開館。門下生の指導にあたる。1969年10月宮里栄一先生の勧めにより沖縄剛柔流空手道協会を設立初代会長・宮里栄一、 副会長・伊波康進で発足した。1999年12月11日宮里栄一先生の急逝により、2000年沖縄剛柔流空手道協会の理事会において協会の二代目に伊波康進 を選任し、2004年まで勤められた。

現在

三代目会長比知屋義夫のもと、沖縄剛柔流空手道協会は、本部を沖縄県那覇市首里石嶺町2-6-13の比知屋道場に置き、県内支部道場(10道場)県外 (6道場)及び米国・ヨーロッパ・アジア等にも支部道場を開設し、毎年4月協会主催の選手権大会並びに年3回の昇段審査、毎月第四日曜日には研究会を、さらに海外セミナー等も実施している。現在、比知屋会長は、沖縄県空手道連盟会長でもある。

大和剛柔流

空手は古く琉球王国(現在の沖縄県)にて発祥した武術であり、大まかには接近戦が主体の那覇手と、遠距離戦が主体の首里手の、二大系統に大別される。

大和剛柔流は、那覇手の古参である剛柔流を源として、独自の研究と工夫を加えて発展させた流派である。

戦法スタイル

同じ空手でも、那覇手と首里手とでは、その戦法スタイルは実に対照的である。
接近戦を主眼とした那覇手では、接近戦に不可欠な柔法(関節技や投技等の柔術)を併用して、剛法(突きや蹴り等の打撃術)で仕留めるといった複合戦法を採っている。

一方の首里手では、日本刀剣を構えた侍を仮想敵として発展した側面を持ち、遠距離からの神速の踏み込みと、前後左右に変幻自在な運足法(フットワーク)を誇っている。

第三の空手

剛柔流は那覇手の古参でありながら、昭和15年に首里手の要素を加味した新型を創作しており、故に那覇手と首里手に次ぐ第三の空手であるといえる。

剛法と柔法を併用することにより武術的効果を倍増させた那覇手的戦法と、徒手空拳(素手)で剣にも優るとした首里手的戦法の融合を見事に成功させている。
同時に、「唐手(空手の旧称)に流派は要らない」といわれていた当時の風潮の中で、史上最初に流派名称を名乗った空手でもある。

絶対不敗と絶対不戦

首里手に絶大な影響を与えたものに、中国武術の北派少林拳以外に、日本武術の剣術や柔術などの存在がある。

「無の境地」を目指した日本武術であるが、その最大の特徴とは、冷徹なまでに殺傷の技をその道の本質として追い求め、理想の「絶対不敗」の境地に到達した挙句の果てに、もはや争いそのものを無用とした「絶対不戦」に至った点にこそある。

具体的にいえば「相打ち」ならぬ「相抜け」の高度技法と概念である。

上記を鑑みると、「戦わぬための道」を標榜した古伝唐手と、大いなる調和に至らんとした日本武術の、両者に理念の酷似には驚嘆させられる

剛柔流 尚誠館本部

糸東流(しとうりゅう)

摩文仁賢和
糸東流(しとうりゅう)は、摩文仁賢和によって開かれた空手道の流派。首里手と那覇手、両方の流れを組む流派である。

基本鍛錬として巻藁を使用した突き・蹴りの鍛錬や、砂利の上での正拳腕立て伏せなどより実践的な肉体鍛錬に重きを置いているところは実践的な流派ならではと言える。

糸東会とは

開祖摩文仁賢和は、首里手の大家・糸洲安恒について糸洲派を学び、後に那覇手の大家・東恩納寛量に東恩納派を学んだ。

中学卒業後警察官になった後も、地方に隠れた首里手、那覇手以外の形・技法について模索し続け、松村派、新垣派などの各派を修め、空手以外には琉球古武道の棒術、釵術を学んだ。

それら全ての技術と精神を融合、融和させたものが糸東流空手道である。

その技法上の特徴は、単に突き蹴りだけでなく、投げ、逆技といった技術をも含み、まさに総合武道の様相を呈する。

また、「守・破・離」(基本を忠実に・それを応用し・そこから独立する)という言葉に代表される様に、形という基本を守りながら、それを応用し、組手と結び付けていくことによって作り上げられた分解組手などに、その奥義までをも修めることが出来るように体系ずけられている。

また、精神教育に重点を置いた開祖摩文仁賢和は「君子の拳」を標榜し、円満な人格の形成・向上を目指した指導を行った。

組織

1934年(昭和9年)に糸洲、東恩納両師の頭文字を取り「糸東流」を名乗って以来、大日本空手道会、全空連結成に際して日本糸東流空手道会としての活動を経て、1964年(昭和39年)に「全日本空手道連盟糸東会」が発足。日本はもとより世界へと広がり続けている。

1997年4月には待望の本部道場が埼玉県朝霞市に完成。会員の指導は勿論、指導員の為のレベルアップ講座なども行っている。

また、世界各国へ向けて糸東流空手道を広める為の指導にも積極的に取り組んでいる。

1993年には「世界糸東流空手道連盟」が結成され、日本国糸東会、パンアメリカン地区・アジア太平洋地区・ロシア地区・ヨーロッパ地区を中心に約55カ国が加盟しており、今後もより一層の発展が期待される。

糸東会オフィシャルページ

和道流

大塚博紀は、神道揚心流、及び為我流の柔術を大成した上で、船越義珍・本部朝基・摩文仁賢和に学んだ空手、さらには新陰流等の古流剣術の体捌きを加えて創始した。
和道流 – Wikipedia

和道流は、初代大塚博紀先生(明治25年6月1日生―昭和57年1月29日歿)によって昭和9年に創始された、最も日本化された空手である。

沖縄伝来の唐手を日本武道の理合と技法により、洗煉し再構成して、護身術的、小乗的存在に過ぎなかった唐手を、武道的、大乗的な存在にしたということである。

形、組手、逆投、居捕、立合、短刀捕、真剣白刃捕、女子護身術等々、空手から柔術拳法に到る綜合性の中で学ぶ身体上、精神上の意義は、まことに大なるものがある。

和道流空手道連盟

和道流の真諦

流祖の道歌「武の道はただ荒事とな思ひそ 和の道究め和を求む道」に尽くされている。

和道流の修業は、「敬、愛、禮」の位に則り、争うより至難の和を求めることを目的とする。

時代の流れに即応した和の理念を究めるために、高度の知識と、あらゆる困難に打ち克つ不屈の意志、頑健な身体を養成するのである。

その修業の階梯は広大にして深遠であるが、形、組手、逆投、居捕、立合、短刀捕、真剣白刃捕、女子護身術等々、空手から柔術拳法に到る綜合性の中で学ぶ身体上、精神上の意義は、まことに大なるものがある。技術的には、流す、往す(いなす)、乗るという技法に典型的に現れているように、先で抑え、後の先で制し、先先の先で機の起りを封じ、千変万化して和を恢復するまで止むことがない。

日本武道の積極性の表現であり、精華である。

4大伝統空手ではない おまけ

大道塾空道

大道塾 空道(だいどうじゅく くうどう)は、大道塾が作り上げた安全性と実戦性の両立を目指した競技であり、打撃技、投げ技、寝技が認められた着衣総合格闘技である。

日本発祥の日本人が創設した武術であるが、競技人口は現在ロシアが最も多く、日本の競技人口を圧倒している。
大道塾空道 – Wikipedia

寝技、関節技もあり、現在の総合格闘技の形にもっとも近い空手ともいえる。

空道(くうどう)

頭部に「ネオヘッドギア空(ねおへっどぎあ くう)」という特別に開発された補助具を着用し突き技、蹴りに加え、投げ、頭突き、肘打ち、金的蹴り、寝技、寸止めマウントパンチ、関節技、絞め技など様々な攻撃が認められる総合武道。

「大道塾」という名称の由来

中国、南宋の慧開和尚の書「無門関」の序文
「大道無門千差路有 透得此関乾坤独歩=大道無門、千差の路有り。

この関を透得せば乾坤独歩ならん」を典拠とします。即ち(仏法の)「大道(至高)に至るには一定した門がない=大道(至高)に至る路は無数にあり、四方・八面一切のものが修行になる。

この路の関(関門≒難所≒修行)を透(透≒通過)得(できれば)、乾坤(天地≒人世)を一人でも(堂々と)歩める」という言葉に由来しています。

北斗旗とは

北極星は天球の北極に最も近く、ほとんどその位置を変えない星である。

一方、北斗七星はこの北極星の位置を指し示し、また、この星により古代の人々は時を知ったと言われている。

投げ技までの「格闘空手」から、寝技を解放した「総合武道・空道」と名称は変わったにしろ、北極星を唯一厳然たる不動の「究極の価値」あるものと考え、北斗七星を「現在の時=現在の自分の力、を知り得る道標」と考えた場合、「広く、より以上の至高のものを求める」シンボルとしての相互の関係は全く変わらない。

従って、この大会には引き続き[北斗旗]と冠する。

打撃系総合武道 大道塾総本部オフィシャルサイト

北斗の拳っぽいですね(^^♪

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